アメリカに来てから大変だったこと
ブログを書くのは難しい。
論文を書くわけでもないし、日記を公開したいわけでもないし、手紙を書くわけでもない。
どんな文体で書いていいのかわからなくて、書いては消して書いては消してを繰り返していたら前の投稿から3ヶ月も開けてしまいました。
でも文体とか文章がうまいとか下手とかっていう問題は、そんなに大切ではないんでないか?
考えてたことをそのまま書いてみればいいんではないか?
ということに気づいて、もう一度書き始めてみることにしました。
今日はアメリカの大学に来てから苦労していることについて。
それは、何よりも英語が思うように使えていないと感じて、ストレスになること。
これは日本語で喋ること・読むことが好きであればあるほど、英語で伝わっていない感じがして、感じることなのではないでしょうか。
こっちに来てから、「英検は1級を取得」とか「TOEFLのスピーキングに関してはほぼ満点」とか、何の自信にもならないことを知りました。
日本の狭いコミュニティーでちょっと自慢するのに役立つくらいの価値しかありませんでした。実際に大学で大切なのは読解力とコミュ力です。
当然だけど、大学ではたくさんの本を読みます。
その上で、与えられた時間の中で、正確に筆者の言い分をだいたい把握すること、そしてどうやってアーギュメントが組み立てられてるかってことを理解する力が読解力。
コミュ力は読んだものに自分なりの意味を持たせて人に伝える力です。
言い換えれば、読解力は自分の知識を増やすために必要な力で、コミュ力は人とその知識を介して繋がる時に必要な力です。
なんてことでしょう。コミュ力がないといくら知識があっても人と繋がることができないのです。
コミュ力は「人に好かれる力」と結構近いです。
難しそうなことを魅力的に面白く伝える人って一瞬で好きになっちゃいますよね。
そういうことです。
まあ人に好かれなくても、「自然な英語で」、無理なく伝える、というのがコミュ力です。
でも自然な英語っていうのはなかなか身につかない。
自然に表現できずにイライラすることは毎日起こります。
日常で普通に使う、何気ない一言や言い回し、フレージングやスラングの使い方、キッチンで使う日用品の名前やアメリカ人が昔から読んでいる本の題名、そんなような言葉がスラスラと出てこないことが、私にとってはストレスだったりします。
イメージですけど、英語を自然に話すということは、頭の中にぐるぐると回っている、「なんとなくこんなことを言いたい」の塊を、英語という網でキャッチして、組み立てて、スムーズに口に接続するようなことなんじゃないかなと思います。
まずこのキャッチに時間がかかるし、そもそも言葉を知らなかったら説明する言葉を探すところから始まる。そして捕まえた言葉は一番効率的に「伝わる」順序に組み立てられて口に届けらないといけない。
この「伝わる」の感覚?がなかなか身につかないのです。。。
だから、本当に辛いなーとか、自分混乱してるなーと思って人に相談したくなった時は絶対に日本語で電話をかけます。そうするとどれだけ自分が英語で解決できないことが日本語で話すことによって解決されていくかわかります。
論理ではうまく説明できないことですが、やはり20年近く慣れ親しんだ言語は5年着古したスウェットみたいなもので、どうしたって落ち着くわけです。
そうですね。日本語で話すって落ち着くんです。
でも、時にはそんな落ち着く場所から飛び出して、英語を使って生活すると、「世界は広いな〜」と気づきます。それが言語学習のいいところです。
例えば、私が大学で読んでいるような本(古典的な西洋哲学の本)に関しては、英語で検索した方が圧倒的に文献があります。無料PDFも大量にネットに落ちているし。もちろん、日本語でヘロドトスって検索しても無料で読める「歴史」のpdfは落ちていません。
つまり、人が使う言語には、その言語の周りで発達した文化とか、その文化圏が得意とするものが集まってきて、固まっていくんだと思います。
時には、長いこと同じ文化圏にいると、その外が見えなくなって、かなり画一的な文化の中で生活してるという意識すら持たなくなってしまいます。
日々苦労しても、母国語と違う言語で生活をすることで、こうして少しずつ文化圏が広がっていくと、勉強していてよかったなーと思います。
以上、大学で苦労することと、それでもいいことがあるよっていうお話でした〜。