オミクロンに罹りながら、卒論を書いています

St. John's Collegeに在籍して3年と一学期が過ぎました。

そして大学生活最後の冬休みが始まりました。

冬休み、始まる前から嫌な予感はしていたんです。

オミクロンのオミク・・くらいまでは予感してました。

そして見事感染しました。

私みたいに、コーヒーと菓子パンを買いに行くしかほぼ外出しないような人でも感染するのだから、オミクロンの感染力は凄まじい。

風邪みたいな症状、というのは本当で、特になんともありません。

 

さて、St. John'sでは冬休みのこの時期、4年生が卒論を書きます。

卒論とはいいつつも、自分の大学は専攻が無い(気になる人は前回の投稿を読んでみて)大学なので、自分にとって重要だと考えられるテーマなり、著作なりを選んで、20ページくらいのエッセイを書くというのがSt. John'sの卒論です。

私の選んだ著作はジャン・ジャック・ルソーの「エミール」という本です。

大学のプログラム内の本ではないので、自分で選んで、この本でエッセイを書きたいのです、という理由を伝えたところ書かせてもらえることになりました。

ルソーと聞くと、社会契約論とか、一般意志とか、難しそうな専門用語を使っているイメージがありますよね。あと、気難しそうな大学生が読んでいそうとか。

でも、「エミール」はどっちかというとハートフルヒューマン・ドラマ(?)。ルソーが、「僕が子供を育てるならこういう風に教育したい」っていうことを、フィクションドラマと随筆を半々くらいにして書き綴っている本です。

ルソーの随筆は、少し読んだことがあって結構歯に衣着せぬ、毒舌なところが面白くて、今回も期待していました。

で、読んでみたらやっぱり読むのが楽しかった。

「エミール」について自分の理解度確認がてら、紹介させてください。

 

本著作の1章から4章は、主人公エミールという男の子が、家庭教師兼父親(ルソー自身)と共に青年に成長していくまでの教育の課程が書かれています。そして一番読んでいて楽しいのは第5章です。ソフィーという女の子が登場して、エミールと恋に落ち、結婚するまでの様子が小説のようなタッチで描かれているから。恋バナ大好き。

ストーリーは各章を通じて色々とあるわけですが、ひとつ、1章から5章までで一貫して貫かれている、ルソーの信条のようなものがあります。

それは、ルソーの考える人間の「自然の状態」を尊重するというもの。他の著作などを通しても知られていることですが、ルソーは「エミール」においても、性善説を信じ、人間はもともと悪を知らずに生まれてくるものとして論を進めます。ルソーは、この自然の状態を維持できれば人間は絶対に悪くならないと考えているのです。(彼の書き方が非常に上手いので、読み終わる頃には完全に説得されていました)

性善説の考え方から、ルソーは少年エミールを悪習のあふれる都会から離れさせ、田舎の自然のなかで育て、そもそも学校などの公教育も悪い影響を及ぼすとして自分でエミールを教育していきます。その中でも面白いのは

 

1)エミールが泣いても知らん顔 

2)とにかく外で遊ばす 

3)読み書きは18からで良い

 

最初、教育の名著やって言われて読み始めたのに全然教育してへんやんけ!と思いました。

・・・でも、ルソーには教育の原則があります。その原則に則っていれば、教育が間違った方向に行くことは無いということらしいのです。

その原則とは、エミールを幸福にすること。

そしてその幸福とは、

エミール自身が「自分で自分を支配できるような人間に成る」こと。

つまり賢くなって金儲けできるようになる、とか体を鍛えて誰もが恐れる軍隊のトップになるとか、そういう単位の目標は立てていないのです。

ルソーは、エミールが金や力といった外的な要因によって幸福になることではなく、自らの力で自らのことを幸福にできるようになってほしい、と願っているということのようです。

そう考えると、先の3つも

1)エミールが泣いても知らん顔 (あんまり構うと自制の効かないおとなになる)

2)とにかく外で遊ばす (外で遊ぶうちに体が強くなるし、実用的な学びが身につく)

3)読み書きは18からで良い (嫌々やらせたところでいい事はないし、外遊びなどを通して身につけた知性があるので問題ない)

といった感じで正当化されてしまうわけです。なるほど。

 

そんな幸福を自給自足できるように育てられたエミールも、第5章で恋に落ちます。

恋のお相手の名前はソフィー。彼女はどこかで素敵なご両親に育てられた娘、という設定になっていて、ルソー(家庭教師)が「そろそろエミールも結婚だな」と考えている頃に、旅先で偶然出会うという筋書きです。

このソフィーの育て方についてもルソーは色々と考えていて、さっきのような例で言えば、

1)女性は人を喜ばせる技術を身につけるべき

2)女性に観念的なことを考えることは向かないので、哲学的な学問領域を教えない

3)美徳を愛する心を教えるべき

といった教育の基本方針があります。

 

最初は、女性の社会進出が進んでいる現代において、これは時代遅れな考え方では?と思いました。私も大学に通って、4年間哲学書を読み続けてきたので、間違いなくルソーの批判する女性像に当てはまっていますし、第5章でこういったものを読み始めたときはかなり抵抗感がありました。勝手に、自分が批判されたみたいな気分になってだいぶ不愉快でした。

しかし、私がルソーを好きな理由として、全てが彼自身の考えた原則に立ち返るということがあります。彼の女性教育論も、先程紹介した人間の「自然の状態」に立ち返って考えることができます。

まず彼は、女性と男性には同じような体と同じような能力があることを認めた上で、性の違いが男女においてどのような違いを生み出すのかは正直わかりかねる!と実は最初に言ってしまいます。

でも、性の差はあれど、どちらもが人間という種に属しているということは事実。

つまり、男女は自然の共通の目的に向かって生きていることは確かだという考えに至ります。

で、この共通の目的を果たすために男女でチームワークが生まれます。

すると自ずと男女には差別化された行動指針のようなものができてくるはず。という議論に至って、ここから様々な女性の教育方針が決定されていくわけです。

 

「エミール」を読了して疑問に思ったことが大きく分けて3つあります。

 

①「エミール」は時代遅れな教育論か?

少なくとも私が生まれ育った現代日本の社会では、女性と男性の教育に差異がほとんど見られません。そもそも、女性と男性という区分で物事を語ることすらタブーであるとされています。このような時代において、ルソーの「エミール」という著作はどんな価値があるんだろうと思いました。そもそも価値があるでしょうか。ルソーが大きな価値を置く、「自然」という考えかたは偏っているんでしょうか。

実は、意外かもしれませんがルソーのエミールはフェミニズムの先駆けとも読める本です。古いキリスト教の教えでは、女子は家のことだけに携われば良いと考えられ、貞淑な女性像を強制されていました。ルソーは、女性も(限定はされるが)学問を効果的に身につけるべきで、貞淑な女性像を押し付けることは逆に悪習を生むと考えました。

古そうだと思えることも、時代のコンテクストを踏まえれば、案外進歩的だったりするものですね。

 

②教育できることとはなにか?

私のエッセイの主軸は、幸福と教育。

ルソーは「エミール」の中で家庭教師/親としてエミールを幸福にすることを目的に教育を施していきます。でも、ソクラテスならこう言うでしょう。

「自分で自分を幸福にするんじゃないん?」「幸福って誰かに教えられるものなん?」と。確かに、そもそもルソーはどんな立場からエミールを幸福にする、などと言っているのでしょうか。ルソーは幸福なのでしょうか。教育する側とされる側には違う幸福があるのでしょうか。

私は、エミールを読んでみて、ルソーの言う教育は、しつけに近いところがあるなと思いました。ただ、盲目的に作法を身につけるようなしつけではなく、自らが喜んでそうしたいと思うようになるよう、いわゆる美徳の愛好家になるように訓練するといった要素が強いように思えました。教育の本質ってどこにあるんだろうか。

 

③恋・結婚の意味はなに?

それから、気になるのはエミール青年の恋と結婚です。エミールはこの経験から何を学ぶのでしょうか。ソクラテス的に言うと、恋(エロス)は善を求めるときの反応のようなもの。ルソーの語る恋も、かなりこの概念に近いものがあると思います。

あと実は、エミールは婚約が成立してから結婚するまでにヨーロッパを2年ほど旅するというミッションを課されてしまいます。これは、ソフィーにメロンメロンになってしまい、我を忘れてしまっているエミールを見かねたルソーが思いついたものでした。この旅の意味についても、もう少し考えてみたいと思っています。

 

あ~考えまとまらないけど、アドバイザーの先生にたくさんお話を聞いていただこうと思います。

読んでいただいてありがとうございました。